2022/11/03

『人は見た目か中身か論争』に終止符を打ちたい

*人は見た目か中身か?
 ルッキズム以前に、模索中であるブログの体裁が整わない事を予めご容赦頂きたい。タブレットからの投稿とスマホからの投稿で若干の差異があるようなのでそこもひっくるめて何とかしようと思う。
 さて、今日は外見と内面の評価について考えてみた。
 ちなみに私自身の自己評価は中の下ぐらいである。主な減点要素としては、受け口故に笑顔がブサイクなのと、医者にもう少し体重を減らすよう言われているにも関わらず運動習慣が身につかない事と姿勢が悪く骨格が歪んでいる事だ。
 あまり卑屈になるのも印象がよくなさそうなので加点要素も挙げていくと、目鼻の彫りが深い事と髪色が綺麗な黒色である事だろう。

 以前から私は、髪の毛はボサボサ、眉毛やヒゲも伸びっぱなし、ファッションには無頓着など『中身は立派かもしれないが容姿を何も気にしない人』に対してとんでもなく否定的だった。大人の監視下にある学生ならいざ知れず、社会人として外に出て、他人と関わるならばどんなに秀才だろうと、権力があろうと、功績があろうとそれ相応に身なりを整えるべきだと考えている。何より外っ面が好印象であるというのは一部の例を除いて損はないのだ。
 その反面で『見た目は綺麗だが中身がスッカスカで知性も品性もかける人』に対しても否定的だ。ブスの僻みと言われればそれまでかも知れないが、ルックスだけで世の中渡り歩けると思うな!と常々思っている。二十代まではそれで通用するかもしれないが、人間は老いる。もちろん老いた人が美しくないという訳では無いが、年齢を重ねると容姿だけで甘い汁を啜るのはむづかしいだろう。ならば見た目への投資は無駄なのではないか?

 この様に私の脳内では相反する二つの党が日夜会議を開き、どちらが勝つ事もなく果のない争いを繰り広げている。
 その議題に、一つの妥協点のような物を見出した。

*人の内面の『正当な評価』
 あなたは、自分の内面に対して、人から何かしらの好評価を得た事があるだろうか?

「努力家だよね」
「頭が良いよね」
「仕事が早いよね」
「意外と真面目だよね」
「センスがいいね」
「話が面白いね」
「すごいね」

 きっと、お世辞だったとしてもどれかこれかは他人から言われている事だろう。何も思い当たらない方は圧倒的に自分が悪いか、圧倒的に周囲が悪いかの可能性が高いので早急にこんなブログを読むのを止めて、自分と周囲の環境を見直して欲しい。

 例は適当に上げたが、いくつかは私も言われた事がある。それも主に学業を卒えて、社会人として働き始めてからだ。
 お気づきだろうか?実はこれらの言葉は確かに相手を褒めてはいるが、学生時代の偏差値や成績評価とは違いまったく可視化されていない言葉である事に。

 ここで更に問うのは、その褒められてきた言葉は自己評価と合致するか?である。もしかして、自分では息をするように取った行動に対して思いもよらない称賛をされたり、日頃のルーティンに組み込まれた行動が凄い事の様に言われたりしていないだろうか?
「意外と真面目だよね」の様にいわゆる「不良が掃除すると普段から真面目に掃除している奴より褒められる」という本当に正当な評価か疑わしいケースは無かっただろうか?
 はたまた、その評価の言葉をくれた人の機嫌はどうだったか?私自身も身に覚えがあるが、同じ内容でもその日の気分で他人への評価は変わってしまうのではないか?

 つまるところ、他人からの内面に対する評価というのは全く可視化できず、往々にして感情やシチュエーションに左右されてしまうものだと思う。
 ちなみに、この理屈を都合良く使い、良い評価は奢らない程度に素直に聞き入れ、悪い評価は「相手の気分や場面が噛み合わなかったのだろう」くらいに考えておくとストレスを軽減して過ごせるので是非実践してもらいたい。但しこれはあくまで称賛や批判という評価についての話なので『損失』や『失敗』といった行動結果における事実は真摯に受け止めよう。

*外見への評価
 ここまでの話で人は他人の内面について、100%正当な評価をできない、という結論に至った。では外見への評価はどうだろう。
 冒頭での自己評価で私は「受け口、体重、骨格の歪み」という減点要素を挙げた。他人がどう思っているかは正直なところ解らないがそれでもこの要素に対して努力するなり、金をかけるなり何かしらの取り組みをすれば、他人からの外見的評価は上がり、この要素を改善しても決して批判される事はないだろう。
 私個人の話はともかく、何が言いたいかというと外見への評価は多少好みの違いはあれど努力と投資に比例するのではないかと言う事だ。

 気遣いやマナーを身に着け、知識を蓄えたとしても、内面の努力や投資は相手の受け取り方次第では良く思われないケースがある。しかし外見への努力や投資は批判には繋がり辛く、批判されたとしてもそれは嫉妬の二文字で解決できてしまうのだ。もしも「あの人は見た目は綺麗だが、性根が腐っているのが顔に出ている」と言われるならそれは結局、内面への批判でしかない。

 努力や投資と評価が比例していくのは人間にとって大変心地良い事だろう。他人から褒められるという報酬。損失の可能性がない投資。必ず報われる努力。比べてしまうと内面を磨く事の方が当たり外れの大きい博打の様に思えてしまう。
 そのリターンを考えた時に人はルッキズムに捕われていくのではないだろうか。

*他人から評価を得るなら外見を磨くのが手っ取り早いが、他人からの評価が全てではない。
 もちろんこの話は「他人からの評価」というものに焦点を当てて考えているだけなので極端な結論になるが、人生はこれだけが全てではない。
 また、人間関係における評価というものは重ねてきた時間、積み上げてきた実績など色々な要素が複雑に絡み合っているのでそもそも「見た目か中身か」の2択で論ぜれるものではないのも重々承知だ。
 
 この事を考えるきっかけになったのはSNSで炎上したとある女性達のやや不適切な行動に「可愛いからいいじゃん」といった意見が多く見られたからだ。
 もちろん私は最初は頭ごなしに否定的だったが、その日にたまたま資格取得についての努力があまり認められないという経験した(高難度の資格を優先し、すぐに必要としない低難度の資格を後回しにするというのをものすごく否定された)。
 この帰り道で「もしかして他人に対して自分の中身を良く思ってもらおうと考えても意味がないのではないか?」という事をモヤモヤと思いはじめたとこから上記の結論に至った。

 他人から評価されるということは拗れると厄介だが原動力にはなる。
 自尊心と承認欲求の折り合いをつけて、バランスよく努力や投資をする事でより生きやすくなるのではないだろうか。

 自分の内面的な努力を一番に理解してあげられるのは自分だ。あなたが努力をしたと思うのならまずは自分が評価をしてあげよう。
 と、自分に言い聞かせて今日も眠りにつこう。